「建設21」−14年の歩み
 
         
   
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「建設21」は本年3月号を持って、休刊といたします。今回は、その最終号で編集長四方洋さんと私とが、本誌発行の14年間を振り返って対談いたしました。

四方 「建設21」はこの号で休刊になります。創刊が1993年2月ですから、14年間続いたことになります。前半の7年は川村市雄さんが編集長、後半の7年は私、四方洋が編集を担当しましたが、川村さんは時事通信政治部の記者で旧建設省を担当して官僚の人脈にくわしい人でしたね。平塚市の助役などもやられましたが、病に倒れられて交代となりました。
岩見 川村さんは「建設官僚の系譜」を連載されました。これはやめられるまで63回続きました。戦前の内務省時代からの系譜で貴重な労作ですが、結局途中で中断のやむなきに至り、まとまった本に出来ませんでした。創刊号の目次は別ページに載せているのでご覧いただきたいと思いますが、第2号には当時の道路局長、藤井治芳さんにご登場願っています。本号に道路局長宮田年耕さんが出てくださったのですが、道路局長にはじまり、道路局長で絞めさせていただいた感じがします。
四方 創刊のときの発行人は岩見さんのお父さんの岩見孝信さんでした。やはり2号に「創刊にあたって」の文章が載っています。どんな思いでこの雑誌を出すことになったのか、要約しますと「21世紀に向って公共事業の現状とあり方を記事にすることを主体にして発行する」「そして今回の5ヵ年計画が終了する時は、まさに21世紀の門に立つことになる」「建設官僚の方々には勿論、有識者、文化人並びに一般国民もあらゆる知恵、知識を結集してより良い国土建設を進めるべきだと考えています」ということで、公共事業のあり方を問いたいとする情熱が伝わります。
岩見 父は「経政春秋」の林肇さんを手伝っていました。林さんが亡くなられて一年くらい経った頃、「自分もやってみようか」と「建設21」の創刊を思い立ったようです。これまでよく続いたなあと思いますが、スポンサーとなって広告を掲載して下さった企業の支えが大きかったですね。父はいま紹介された「創刊にあたって」で書いている通り、公共事業のあり方を問い直したかったのですが、3つのことをよく言っていました。1つは「表立って言えないことを代弁する」、1つは「一般に載らない情報を流す」、1つは「建設業界として言いたいことを代弁する」
四方 私は旧日本道路公団のお二人の有力なOBから「やってくれませんか」と頼まれたのですが、お父さんと川村さんの時は旧建設省に重点があり、息子さんの眞人さんに移ってからは旧日本道路公団に取材色が変わりましたね。建設省は運輸省などと一緒になって国土交通省になりました。もちろん同省の道路局や河川局なども取り上げあげましたが、割合は旧日本道路公団のニュースが増えました。
岩見 川村さんは旧建設省の官僚で、ノンキャリアのトップだったエンテイさん(遠藤貞一)と仲がよかった。それに対して四方さんは旧日本道路公団に知人、友人が多く、公団職員から頼りにされていました。その違いが出たのかもしれません。
四方 エンテイさんのことは私も覚えています。OBになっても面倒見がよく、人柄は温厚で人気がありました。私の友人の社長なんかも相談に行っていました。今はそんなフランクに出来なくなりましたが、
岩見 父が亡くなったのが1998年4月、川村さんが翌年の11月でした。今振り返ると父と川村さんの時代が7年、四方さんと私の時代が7年、奇しくも半分、半分で終わることになりました。
四方 第2号に「必要性はようやく浸透―長良川河川堰77%の進捗」の原稿が載っています。これは、川村さんの仲間である元読売新聞の坪井さんが書かれたと聞きます。「よく書いてくれた」という反響があったそうですね。
岩見 「雑誌を送って」という注文が殺到しました。もっとも反響を呼んだ論文でしたね。
四方 工事反対の論調が多い中で、あえて必要論を書いた。坪井さんはマスコミの論調に異を唱え、建設省の対応にも叱正を加えています。これが反対の勢いに押されがちな河川局や岐阜県を勇気づけたのですね。
岩見 四方さんの代になって印象に残っているのは藤森謙一さんとのロングインタビューでした。私もご一緒しましたが、藤森さんは90歳を過ぎて、かくしゃくとしておられて記憶も確かでした。この連載は藤森さんが「本にまとめたい」と切望されて小冊子になりました。刊行の記念パーティーも開かれて藤森さんは終始ご機嫌でしたね。
四方 パーティーのあと、2年ほどで亡くなられましたが、藤森さんの人生の締めくくりを飾ったインタビューでした。喜んでいただいたのはなによりでした。藤森さんは日本道路公団創立時の企画課長で、岸道三初代総裁の信頼が厚い人でした。決して堅物でなく、ユーモアにあふれた人柄でした。
岩見 小泉旋風が吹き荒れましたね。日本道路公団など4公団の民営化や公共事業費の削減など、嵐のような5年間でした。「建設21」は小泉首相のやり方には反対を貫きましたが、今になって見直しの機運が出ています。
四方 特に道路公団のことを悪のように批判する風潮は許せませんでした。テレビや新聞、週刊誌も一緒になって、大キャンペーンを張ってきたので、抵抗するのは勇気がいったと思います。公団職員の子供が学校でいじめられるなんて話もあって、異常でした。マスコミにあおられやすい日本人の気質は情けないと思いました。
岩見 極端にぶれるのは恐ろしい気さえします。四方さんが書かれた「ゆえに高速道路は必要だ」などは今に評価が変わりますよ。
四方 格差社会もあの頃に拡大していったのですね。気がついたらもの凄い格差が生まれ、限界集落やワーキングプアの存在に気付いて騒ぎはじめました。
岩見 新潟地震の前に山古志村に行ったことがあります。孤立する村に、山を抜くトンネルが欲しいというので、村人たちが手掘りでトンネルを掘り、長い間かかって貫通させるドキュメントのことで訪ねました。長島村長さんに会って、日本記者クラブで映画会を開催することにして、実現しましたが、道路関係者に出席いただいて、好評でしたね。村長さんもわざわざ東京に出てきてくれましたが、のちの選挙で衆議院議員になりました。
四方 「建設21」のイベントでしたね。新潟地震後山古志村が有名になり、あの映画も各地で上映されました。地震を予知した訳ではありませんが、いち早く映画の感動を伝えたことは誇っていいでしょう。私も日本記者クラブの機関誌から取材を受けましたよ。
岩見 休刊ということになりましたが、当初父が考えていた創刊の趣旨は果たせたのではないかと思います。公共事業の現状とあり方について、絶えることなく説き続け、載せ続けましたから。
四方 最近は談合の摘発が続いて、知事が3人も逮捕されましたが、受注の価格競争も極端にぶれています。安かろうだけで工事が進むと、将来の日本の安全が保てるか心配ですよ。基準価格を大幅に割って、赤字覚悟で工事を請けるというのは、どこかで手抜きすることにつながりますから。シンドラーエレベーターなどいい例だと思うし、その一例といえるでしょう。
岩見 最終号で宮田道路局長が技術を加味した総合評価とおっしゃっているのは心強いです。時間はかかるでしょうが、うまい落としどころつくって、業者が一方的に犠牲になることのないようにして欲しいです。
四方 建設業界にとっては激変の14年でした。「建設21」を支えて下さった皆様にお礼を言って閉じたいと思います。
岩見 本当にありがとうございました。

本当に皆様長きに渡って、「建設21」をご愛読いただきましてありがとうございました。また、いつの日か本誌を皆様にお届け出来る日が来ることを願ってやみません。それまでは小生、本ホームページで今まで通りに主張すべきことを皆様にお伝えしていきたいと考えておりますので、引き続きよろしくお願い申し上げます。


   
 
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