安部新政権に望む
 
         
   
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      安部新政権が発足して10日ほど経つが、初めての戦後生まれの総理大臣に対して期待と不安が交錯している。組閣に関しては、悪く言えば論功行賞内閣、よく言えば個人的な信頼関係を重視した内閣と言える。
  新内閣は官邸機能強化を全面に打ち出し、総理補佐官を5人にした。今後この総理補佐官がどのような仕事をするかは注目するところである。各省庁を横断的に官邸がリードする政治が本当に出来れば、日本の政治も変わる可能性がある。訪中問題で、早くも外務省と官邸が火花を散らしているようであるが、今後の動向が見ものである。各補佐官の担当業務が大臣の仕事と重なっているので、政策決定の過程で混乱が生じる局面が起きるであろう。形やパフォーマンスでなく、安部総理が官邸を強化することにより何を目指し、成功すれば何がもたらされ、その過程ではどんなリスクが待ち受けているのか、官邸機能強化は安部総理の指導力に全てがかかっている。
  しかし、昨日終わった衆参両院の本会議での代表質問で3日間の論戦を見る限り、まだまだ安心して任せられる総理の風格は見当たらない。官僚が作成した答弁書の代読をしているようで、自分の言葉で語りかけているようには聞こえない。やたらにカタカナ言葉を使うのもなぜか不自然に聞こえる。官邸主導の政治を目指すなら、まずは自分の言葉で語り、国政をリードして欲しい。
  「美しい国を目指す」というスローガンも一国の総理大臣のものとしては、現時点では抽象的過ぎて心に響かず物足りなさや弱さを感じるのは私だけであろうか。
  お坊ちゃん育ち・温室育ちとは、一国の総理になった以上絶対に言われても言わせても困る。安部総理に早く上辺だけでない芯の通った総理の風格と誰もが認める指導力を身に着けてもらいたい。そうすれば、「美しい国を目指す」というスローガンも国民の心を突き刺す言葉になるのではないか。
  5年半に及ぶ小泉政権下で、我が国の貧富の差は広がり、今までにない格差社会が構築された。これは、言わずもがな米国の要望書通りの政策を我が国が取り続けて来た結果であり、特に小泉政権時に集大成された。新政権に望むことは、なんとかこの流れに終止符を打ち、日本らしい日本人らしい社会の構築が出来るように日本丸の舵を取って欲しい。

  例を挙げれば切りが無いが、地方都市を衰退させる結果となった大規模小売店法の廃止は、米国が日本政府に送った規制緩和についての年次要望書によるものである。大規模小売店法は「消費者の利益の保護に配慮しつつ、大店舗の事業活動を調整することにより、その周辺の中小小売業者の事業活動の機会を適正に保護し、小売業の正常な発展を図ることを目的」として1973年に施行されたが、1998年に廃止が決まった。この法律は、文言にあるように、巨大企業が小規模小売店を支配し破壊することを防いでいた。そうすることで失業を防ぎ、そこから派生する貧困や犯罪を抑え社会秩序を保つ働きをしていた。このような規制のない米国では、巨大企業が市場を独占し支配して昔から格差の大きな社会が構築され社会秩序が乱れていた。大規模小売店法という、健全な競争を保ち、米国のような破壊的な競争を防ぐための規制が外されたことで、我が国は米国と同じ道を歩むことになった。
  小泉政権下で「官から民へ」「改革なくして成長なし」というスローガンのもと、あらゆるものを民営化して規制を取り払った無制限で野放図な市場原理主義導入の結果は、失業者が増え、格差が拡大して、犯罪や自殺者が激増する米国風の不安定で無秩序な社会の構築であった。
  小泉政権下で特に槍玉にあがった公共事業は、今までは失業者を出さない社会造りの受け皿として大きな役割を担って来た。しかし、小泉政権に完全に打ちのめされ崩壊して、その役割を果たす機能は大きく低下した。
  現在進められている規制緩和の目玉は、農業である。政府の規制改革・民間開放推進会議の答申等を見ると、株式会社の農地所有の解禁などの規制緩和がもう直ぐそこまで来ていることが窺える。かつて、規制緩和によって進出した大型ディスカウント店やコンビニエンスストアーが地元の中小の小売店を廃業に追い込んだことを考えると、資金力が豊富にある大企業の農業分野への進出は農家にとって相当の脅威であり、先行きが凄く不安である。また、その後その大型店が倒れて、周辺の商業地域全体が地盤沈下した地方の例をみると、農業に進出した企業が、企業の論理で採算が取れないからといって撤退する時を想像させる。もしそんな事態になれば、その地域と土地の荒廃は確実であり空恐ろしくさえなる。
  確かに、資本主義社会においては規制緩和をチャンスして捉える企業や人間もいる。また、どんなビジネスも競争の中で淘汰され、生き残ったものこそが、真に活力を有するものであり、発展する権利を有すると戦後の日本人は教育され考えるようになっている。しかし、その考え方そのものがアメリカ人の考え方であり、狩猟民族である白人の考え方ではないのか。
  もちろん全てを否定するものでは無いが、農耕民族である日本人が、完全にアメリカンナイズされ米国の要望書通りの国になってしまってよいのか。我が国が行なってきた規制の中には、日本人にとって必要な規制も数多くあるのではないのか。強いものだけが勝ち弱いものが負ける、ただそれだけの競争社会でよいのか。大企業や富裕層が優遇され社会的弱者が多く生まれて切り捨てられるような米国的な国になって本当によいのか。
 

  安部新政権は小泉政権から権力を踏襲した政権であることは誰の目から見ても明らかである。このままでは、間違いなく同じ道を歩むであろう。だが戦後生まれの世代としてどうしても言っておきたい。今の米国から押し付けられた政策だけを基本として我が日本が歩み続けて本当によいのか。安部晋三総理大臣はそのことをもう一度熟慮して、我が民族に適した「美しい国を目指して」指導力を発揮していただくこと熱望する。


 
   
 
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