日本人の風習「談合」を考える
 
         
   
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 「橋梁談合事件」が起こり日本の社会に深く根付いている「談合体質」が問題になっている。また国会では郵政民営化法案の参院採決を目前に控え、政治家同士が物凄い勢いで「談合」を繰り返している。衆議院での採決の時は、議場閉鎖の寸前まで反対票を入れようとする議員に対して執拗な説得(談合)が行われている状況がテレビ画面に映し出されていた。
 何故日本の社会では、どこもかしこもこのような状況が繰り返されているのであろうか。俗に言う「談合」とはそんなに「悪」の制度なのであろうか。私には、戦後60年を経過した日本の社会で「日本古来の制度」と「欧米型のシステム」とが本当の意味で最後の攻防を繰り広げているように感じられて仕方が無い。
 こんなことを言うと「何を今更言っているのだ」とお叱りの言葉を頂戴しそうであるが、ご批判を承知の上で敢えて言わせていただくと、これは敗戦国日本が自国の風習の上に欧米のシステムや法律を強制的に課せられた結果なのではないであろうか。それでも今までは、欧米の「建前」(欧米型システム)は受け入れたが、運用は自国の「本音」(日本古来の制度)で行ってきたものが、本音と建前の違いが否定され、運用も欧米のシステムで行うように強いられるが故に起きている様々な矛盾や現象なのではないであろうか。
 今回は、経済学博士で起業家として有名なビル・トッテン氏が以前雑誌に掲載した記事を紹介して、今我が国に起きている様々な問題と照らし合わせて「日本人の風習・談合」について考えてみる。

 

  ビル・トッテン  『Venture Link』誌(1999年2月号)より

 日本人は農耕民族である。だからもともと「競争」という観念はなく、皆が同じ場所で生活し、農作物を育て、暮らしの技術を育んできたのである。
 こうした社会にあっては、「自分の方が強いから取り分を多くしろ」などという、弱肉強食の発想は生まれてこない。ともに働いて収穫を分け合うことが原則である。
 一方、狩猟民族である白人は農作物を育てず、獲物を捕って生活していた。だから同じ場所に定住し、同じ仲間と長い間生活するということもあまりなかった。
 時代の変化とともに彼らもある定まった場所に住居を構え、生活を営むようになる。しかし彼らはもともとが狩猟民族なので、より豊かな生活をするためにはよそのテリトリーに進出し、略奪した方が手っ取り早いと考えた。
 そして白人はモノを奪う手段を正当化する、実に都合の良いシステム、資本主義をつくり上げた。海賊となって略奪を繰り返し多くの財を築いてきた彼らは、自分たちの金を効果的に使うために、今度は資本家となって他人の土地を占領しその土地の人々を搾取した。その結果、それまでは皆で共有していた土地がひとりのものになってしまった。つまり大地主の誕生である。
 彼らは土地を、「神様が皆のためにくれた大地」とは考えず、「ここは自分のもの、そこはお前のもの」と各人の所有物にし、売買の対象とした。土地を売買するようになると、資本家はやがて人間や水まで売買の対象とし、なんでも市場に任せ、すべてを競争の結果で決めるようにしてしまった。
 こうした考え方が非常に強いのが、資本主義発祥の地であるイギリスと、現代の資本主義を象徴する国であるアメリカである。
 もちろん彼らもいまでは人間を売買したりはしないが、競争こそ正義、とこだわり続けていることには変わりがない。

自由競争のデメリット
 しかし農耕民族であった日本も、資本主義が入ってきてからは徐々にイギリスやアメリカに近づいてきている。この点に、私は大きな気がかりを感じている。
 日本人はもともと農耕民族で、お互いに助け合って一緒にやってきたのだから、競争ですべてを処理しようなどと考えずに、皆の仕事を皆でカバーすればいいのである。皆で役割を分担し、つくったものを皆が納得できるように配分すればいいのだ。
 そのひとつのやり方が、談合だと私は考えている。
 意外に感じる人もいるかもしれないが、私は談合を悪いどころか、弱者を救うとても良い制度だと思っている。
 その分野に強い会社が自分たちで役割分担を決め、自分たちの納得のいく形で売上げを分配するのが談合というシステムだ。
 たしかに受注は独占的になり、受注価格も自由競争で発注するより若干高くなるかもしれない。しかし、いくらか値段が上がっても、最強の1社にすべてを発注するのではなく、相談のうえで弱い会社にも仕事を回すのが、日本的な考え方だと感じるのである。
 やや受注価格が上がってしまうのは、競争力のない会社を守り、雇用を維持するためのコストだと考えれば、それほど不合理なことではないと私は思う。
 しかし世間では、この談合のマイナス面ばかりが取り沙汰されている。
 例えば、「談合のグループに入れればいいが、入ること自体が難しい。ほかの業者のチャンスを奪っているのはけしからん」という批判がある。だがよく考えてみればそんなことは当然である。
 国会にしても、選挙で当選しなければ議員にはなれないし、新人よりも現職の方が当選しやすい。商売に関しても、新参よりはなじみの業者から製品を買う人が圧倒的に多いはずだ。談合だろうが自由競争だろうが、実績や信用がなければ大変なことに変わりはないのである。
 だから談合に批判的な人たちは、すべてが自由競争になった場合のデメリットを考えてみると良い。
 イギリスやアメリカのように完全競争にしてしまうと、昨今のような不景気ではあちこちの会社がつぶれてしまいかねない。強い会社が仕事を取れるだけ取ってしまう一方、まったく仕事が取れない会社も出てきてしまうからだ。
 その点、談合では強い会社でも仕事をむやみに取り過ぎることはしない。自分たちが全部の仕事をこなす力があっても、仕事の一部を弱い会社に回すのが談合だから、一緒にやっている人たちは長期的に円満な関係を保つことができるのである。


中央集権型行政の無駄
 「談合の最たるものは公共工事であり、談合で値段を決めるからいくぶん割高になり税金を余分に使うことになる。国民の税金を一部の業者のためにたくさん使うのはおかしいではないか」という人もいる。
 しかし私は、より問題が大きいのは談合ではなく、税金を使う仕組みそのものだと考えている。仕組みがおかしいため、「税金は本当は誰のものなのか」が役人にわからなくなっているのだ。
 税金を都道府県単位で集め都道府県単位で使えば、使う役人も「自分たちの金を使っているのだ」という認識を多少なりとも持つだろう。
 しかし現在は、全国から税金を集めておいて、その使い道を決めるのは霞ヶ関の役人たちという形になっているため、国民との距離が離れすぎてしまい、「国民の金を使っているのだ」という認識が限りなく薄らいでしまっている。発注サイドの税金に対する感覚がマヒしているため、その使い方がどんぶり勘定になってしまい、多少高い値段でも「まあ、いいか」ということになっているのだ。これは別に、談合のせいではない。
 日本は中央集権型でここまでやってきたが、必要のないところまで集中管理している。そこを変えれば公共工事の値段も少しは安くなるのでないかと私は思う。
 こうした霞ヶ関による集中管理の弊害のひとつが「天下り」である。この弊害をあたかも談合という制度によるものだという向きもあるようだが、談合のない、自由競争社会のアメリカにおいても、天下りはある。
 例えば、陸海軍などのお偉い方の中には、軍をやめた後、軍用機をつくっている会社に再就職する人たちが少なくない。また、天下りではないが「回転扉」というものもある。ウォールストリートの人間が内閣に入り、またウォールストリートに戻っていくのだ。その結果、例えば、IMFなどがウォールストリートの道具に成り下がってしまっている面を否定することはできない。
 一見、談合によるマイナス面と思えるものでも、そうではないことが多い。談合、談合という前に、その悪弊を招いているシステムを変えることが先決だといえるだろう。

「良い社会」に目を覚ませ
 優秀な人は自力でやっていけるのだから、彼らの生活は基本的に心配しなくていい。国民の幸福を目指す社会の責任とは、いかに弱者を保護するかなのだ。
 アメリカでは3,900万人もの人たちが貧困にあえいでいる。自由競争によって、多くの人たちが落ちこぼれ、苦しんでいるのだ。
 そこへいくと、日本は談合や社内失業の容認などで、弱い立場の人間を保護し、能力が平均以下の人でも幸せに暮らせる社会をつくり上げてきた。しかも、生産性はアメリカの1.3倍であり、技術力は高く、寿命は世界一長く、乳児死亡率も非常に低い。日本はどの基準をとってみても、「良い社会」なのである。
 であるのに、なぜ他国からいわれたことにすぐ反応してしまうのか。規制緩和にしろ、談合にしろ、日本はこれでうまくいっている。

 談合している人たちも、悪いと思っていればやっていないはずだ。内心で良いことだと思ってやっているのだろうから、もっと堂々と主張すればいいのである。
 日本のやり方を学ぼうともせず、自分たちだけが正しいと思っているアメリカのいいなりにばかりにならずに、戦うことも大切だと私は思う。

 


 如何であろう。日本は今後どういう道を歩むべきなのであろうか。もちろん法律の遵守は国民の義務である。故に、法律の選択は我々国民がしっかり考えて行わなければならない。私は今こそ日本古来の制度をもう一度見直し、「良い談合と悪い談合をはっきり区分」して現在にマッチした日本に適した制度を再構築するべき時だと考える。

   
 
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