「新潟県のため、十万人の被災者のために」
 使命感が成した 関越自動車道早期一般開放
 
         
   
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  昨年の11月26日、新潟県中越地震で損壊した関越自動車道の長岡〜小出IC間約40`が応急復旧工事を終え、片側二車線の四車線道路として復活し、首都圏との大動脈が復旧した。地震発生から約34日間の早期復旧を可能にしたのは、JHの危機管理に対する高度な防災意識と経験により培われた技術力、それと何よりも「県と被災者を思う使命感」が成した技であると言える。早期復旧の舞台裏を取材した。

 10月23日(土曜)午後5時56分頃、新潟県中越地方を震源とするマグニチュード6.8、最大震度7の直下型地震が発生した。JH北陸支社では、直ちに非常体制が発令され職員が非常参集した。関越自動車道を管轄する湯沢管理事務所・長岡管理事務所においても職員が非常参集して現地対策本部が設置された。JHでは、ほぼ20q毎に独自の最新式の地震計が設置されており、計測震度が4.5を超えると通行止めが発令される。
 一方、メンテ・エンジ等の関連会社の職員も電話も不通の状態のなか多数の職員が自主的に参集して、自らの判断で復旧作業が開始された。
 地震発生が夕刻に差し掛かった時刻であったことも重なり、夜を徹しての調査点検作業が行われた。 当初暗闇の中での点検では、道路に数十箇所におよびクラックが入ったり段差が出来ているとの報告が入ってきた。点検を行いながら段差部には砕石や土のう等で緊急的な措置が併行して行われた。皆の思いは、大規模で甚大な被害を受けた被災地の復旧支援のための通行路の確保が最優先とされた。その結果、地震発生から約19時間で緊急車両の通行路が確保された。
 しかし、翌朝夜明けとともに明確になった高速道路の被災状況は、予想をはるかに超える大規模なものであった。それはまさに高速道路の崩壊を意味していた。JHでは北陸支社はもちろん全社を挙げて「県と被災者の救済のため」を合言葉に復旧に向けての本格的な戦いが始まった。また、関連の建設会社にも総力戦での協力を要請し、24時間体制での復旧作業が開始された。
 JH本社・試験研究所からは阪神大震災等で経験を積んだ専門家による技術支援団が組織され現地入りして、逸早く現地調査及び復旧計画への技術的助言が実施された。また、本社及び隣接する支社局等から応援派遣された人員は220人に及んだ。
 復旧に要した人員や機材は、11月26日の4車線一般開放までに、延べ数で重機数約一万五千台・作業員二万五千人・点検人員一千人を数えた。
 その結果、被災から約100時間後の10月27日には緊急車両が円滑に通行可能な状態になる までに応急復旧された。被災直後から一般開放さ れるまでに約6万8千台の緊急車両・食料品や生 活必需品等の物流車両を含めた災害救助関係車両 および路線バスや新幹線代行バス等が通行して被 災地への生命線の役目を果たした。
 11月5日被災から13日後、関越自動車道が全線通行止め解除となり、片側一車線での通行が可能となった。この一般交通解放後の震災区間での交通量は、昨年同期の平均交通量を上回っている。しかし、この一般開放は飽く迄も応急的な復旧であり、制限速度も50qに規制されていた。
 JHでは迫りくる冬場の雪氷の時期も踏まえて、除雪可能な路面の平坦さの確保と4車線開放に向けさらにピッチを早めた復旧工事を余儀なくされた。
 その間、震度5以上の余震が17回発生し、あるいは復旧作業に携わっている職員自身が被災者で住まいが崩壊している者もいる中、使命感に燃える復旧作業は続いた。
 そして、11月26日午後四時、80q走行および除雪可能な路面の平坦さが確保され、一般車両の四車線での走行開放が復活した。地震発生から約34日後の早期復旧であった。
 今回の復旧工事において、関越自動車道が4車線構造であったことが、復旧工事を早めたり復旧工事中に緊急車両や大型車の災害救助関係車両等を通行させながら工事を進められたことに大きく貢献している。また、首都圏と新潟県の間において、磐越自動車道と上信越自動車道が既に完成し、高速道路の広域ネットワークが形成されていたことにより、関越自動車道の代替道路としての機能が発揮されたことも見逃せない。特に磐越道においては、今回の地震により小出IC〜長岡IC間で光ケーブルが断線したが、磐越道を経由したバックアップルートにより、非常電話等の運用や支社と湯沢管理事務所の業務連絡は通常と変わりなく行われた。
 もちろん、4車線開放したと言っても現段階はまだ応急復旧であり、来春以降本格的な復旧作業が計画されている。

 今回の取材を通して感じたことは、ここには単に中越地域だけの問題でなく、全国のほとんどを占める人口密度が低く高齢化が進んだ地域における震災時の危機管理問題がある。震災発生時の幹線道路とくに高速道路の意義の深さを痛感させられた。確かに高速道路は、利用者のためのものという面が強いが、災害時の高速道路は、被災者と周辺住民のためのものであろう。
壊滅状態にある山古志村の長嶋村長がマスコミの取材に対して「復興には、まず道が必要」と答えていたのが、印象的であった。

   
 
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